こんにちは、LiNKS個別指導です。
8月に入り、夏本番を迎えました。各校舎では、子どもたちが暑さに負けず夏期講習に励んでいます。
さて、日本の8月といえば終戦記念日があります。この時期になると、テレビや新聞などでも平和について考える特集が数多く組まれます。
そこで今回は、少し歴史に目を向け、「幻の京都原爆投下計画」をテーマに平和について考えてみたいと思います。
京都は原爆投下の第一候補だった
現在の京都には、多くの寺社仏閣や文化財が戦禍を免れて現存しています。
そのため、「京都は文化財が多かったから空襲を受けなかった」「アメリカ人が京都を守ろうとした」といった話を耳にすることがあります。
しかし実際には、文化財を有する都市であっても空襲を受けた例は数多くあり、多くの貴重な建造物が戦争によって失われました。
では、なぜ京都市は全国の主要都市のような大規模な空襲を受けなかったのでしょうか。
その理由の一つとして考えられているのが、「京都が原爆投下の最有力候補地だった」という事実です。
1945年5月、ワシントンで開かれた原爆投下候補地会議では、候補都市として次の4都市が挙げられました。
- 京都
- 広島
- 横浜
- 小倉造兵廠(現在の北九州市小倉地区)
注目すべきは、京都が最初に記載されていることです。
つまり、この会議の時点では、京都が第一候補、広島が第二候補という位置付けでした。
会議資料には京都について、
「人口約100万人を抱える都市であり、日本の知的中心地でもある。京都への投下は知識人や指導者層に大きな心理的衝撃を与える。」
という趣旨の記述が残されています。
このことからも、当時の状況次第では京都に原爆が投下されていても不思議ではなかったことが分かります。
しかし最終的には、当時のアメリカ陸軍長官ヘンリー・スティムソンの強い反対により、京都は候補地から外されました。理由については諸説ありますが、日本の歴史・文化の中心地であることや、戦後の占領政策への影響などを考慮したと考えられています。
もし京都に原爆が投下されていたら…
ここから先は、史実ではなく、当時の資料や広島・長崎の被害を参考にした一つの考察です。
仮に、京都市内の梅小路付近を目標地点とし、広島型原爆「リトルボーイ」が午前7時30分頃、地上約600メートルで炸裂したとします。
爆心地から半径約1km以内には京都駅や東寺、西本願寺などがあり、この地域は壊滅的な被害を受けた可能性があります。
さらに半径約3km以内の東本願寺、京都御所、二条城、四条烏丸周辺でも、爆風や大規模火災によって甚大な被害が生じたことが考えられます。
当時の京都市街地は木造建築が多く、爆風を免れた建物であっても、その後の火災によって焼失した可能性は十分にあります。
また、負傷した人々は水を求めて鴨川や桂川へ向かったかもしれません。
京都大学などの医療機関には大勢の負傷者が運び込まれたでしょう。しかし、医療体制や物資には限界があり、多くの命を救うことは難しかったと考えられます。
さらに、爆心地から離れた地域へ避難した人々の中にも、放射線による急性障害を発症し、その後亡くなった方が多数いた可能性があります。
広島では1945年末までに約14万人が亡くなったとされています。京都でも同規模の被害が発生したと仮定すれば、十数万人規模の犠牲者が出ていた可能性があります。
「もし」は、広島・長崎で現実になった
ここまでの内容は、「もし京都だったら」という一つの歴史的考察です。
しかし、私たちが忘れてはならないのは、このような惨劇が実際に1945年8月、広島と長崎で起きたという事実です。
突然の日常の中で、多くの人々が命を落とし、その後も放射線による後遺症に苦しみ続けました。
81年前の出来事は、決して遠い国や遠い時代だけの話ではありません。
候補地が少し違っていれば、その出来事は京都で起こっていたかもしれません。
だからこそ、広島・長崎で失われた尊い命に思いを寄せるとともに、京都で失われていたかもしれない未来にも思いを巡らせたいと思います。
平和は、決して当たり前ではありません。
この夏、ご家族でも戦争や平和について話し合うきっかけになれば幸いです。
